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「 在ること 」

注意:あくまで私の主観での定義になります。
いわゆる、小説のネタの一部という扱い…。
確かに私の価値観の一部なので、私は正しいとは思っているんですがw




「 在ること 」

ややこしい言い方になるが、私の日常というのは、世間でいう非日常である。
非日常が日常で、私の感覚は価値観は常軌を逸している。
そして、そのことに気がつきながら、そのことを日常側に合わせようとしない私はさらに常軌を逸している。
「存在する」、ということは、「生きているということ」ではない。
辞書で引く意味がこの世のすべてではない。
辞書は編纂者の主観をまじえたもので、辞書によって同じ単語でも意味、いや、単語の説明は全く違うものが存在する。

「存在する」ということは、「他者が、自分が何かを認識すること」だと私は考える。
例えばだ。
お祭りがあったとしよう。
そのお祭りは開催された。しかし、誰にも気がつかれなく終わってしまった。
この場合、お祭りは存在したのだろうか?
答えは「存在した」
なぜなら、他人にとっては「存在してないお祭り」でも主催者、関わった人々にとっては「存在した」からだ。
例えば、どこかの学校祭。
私たちが把握してないところで、あちこちでお祭りはされているだろう。
そうして「認識」されて「存在」している。

では、自他ともに「認識されない」で、「在るだけ」のものは「存在している」のだろうか?
そこに在るだけ、居るだけということは実は身近に存在する。
それを私は「境界線」と呼んでいる。
ボーダーラインを言ってもいいと思う。
一度跨いでしまったら、もう後戻り出来ないライン。
「存在しているだけ」というのは「ただ単に私たちが認識できていないだけ」という話。

私の中の結論としては、最初に書いたとおり
「在ること」とは第三者に「認識されること」である。

グダグダしたのが読みたい方は20090802の記事を見るといいかも。
続きにながーく私の短い人生論が書いてありますw
 









        
 
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